大判例

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東京高等裁判所 昭和39年(ネ)1543号・昭39年(ネ)1584号 判決

当裁判所も第一審原告の第一審被告ミツヤ製作所及び同山嶋に対する請求はこれを失当と判断するものであり、その理由とするところも、次に附加するものの外は原判決の理由における説明と同様であるから、これを引用する。

また第一審原告の第一審被告名取に対する請求については、同被告の本件物件についての製造数量、販売単価、利益額、従つてまた第一審原告に対する損害賠償額について次の通りに訂正認定する外は、原判決の認定する通りの事実関係であり、また法律関係にあるものと認めるので、同被告に対する関係においても右の部分については、原判決の理由中の説明を引用する。

一、第一審被告ミツヤ製作所及び同山嶋関係の部分

第一審被告山嶋が本件実用新案登録出願の日である昭和三十一年六月七日以前から、右実用新案の権利範囲に属する本件物件の製造販売をしていたかどうかについては、書証としてこれを認めるに足るだけのものは、なるほど本件においては存在しない。しかし原判決引用の乙第一ないし三号証と原審証人仁平光勇の第一、二回証言と原審被告山嶋本人の供述とを総合すれば、右実用新案出願の直後の頃であり、その出願公告の日である昭和三十三年一月十七日より相当に前である昭和三十一年八月中に同被告が仁平光勇から本件物件である、いわゆる「たいこ」のアイロン台の原材料を買入れている事実はこれを認めるに十分である。それに原審証人神保仁作、仁平光勇(第一回)、岡部福督、斎藤貞夫、当審証人近藤信一の各証言及び原審における被告山嶋本人の供述を総合すれば、東京方面においては、右いわゆる「たいこ」のアイロン台を相当数の業者が、早い者は昭和二十六、七年の頃から既にその製造を始めており、昭和三十年頃においては最早それは東京方面の業者間では常識化していたものであつて、被告山嶋がアイロン台の製造を始めたのは昭和三十一年春頃であることが認められるところであるから、被告山嶋が右「たいこ」型のアイロン台の製造販売を始めたのは原告の本件実用新案の出願前である昭和三十一年春頃であるとする同被告本人の原審供述及びその趣旨に副う原審証人仁平光勇の第二回証言(同人の証言では被告山嶋との原材料の取引の最初は同年四、五月頃という。)はこれを信用して然るべきものと考える。

二、第一審被告名取関係の部分

(一) 被告名取が昭和三十六年三月一日以降アイロン台を一ケ月平均三千台から三千五百台を製造し販売しているものであることは同被告本人の原審及び当審供述に徴して明らかである。ところが同被告は当審に至つて右アイロン台中半数は本件の「たいこ」型のものであるが、半数はテツクスを白布で覆つただけのもので本件の実用新案権には関係のないものであると主張し、同被告はその当審供述で右に符合する供述をするのである。そしてテツクスを白布で覆つただけの構造のものが本件の実用新案権の権利範囲に属しないものであることは、当事者間に争いのない右実用新案の技術的範囲から見て明らかである。しかし右月産三千台ないし三千五百台とする同被告の供述は、その当審のものはともかくとして、その原審におけるものは、本訴が第一審裁判所に提起せられた昭和三十七年九月十三日から九ケ月余を経過した後の昭和三十八年七月三日にせられたものであり、しかもその供述当時においては、同被告は原審において、右当審におけるが如き主張は全然これをしていなかつたものであり(このことはいずれも本件記録上明らかである。)、従つて右原審供述における月産三千台ないし三千五百台は当然本件で問題とせられている、いわゆる「たいこ」型のものの製造販売数量と受けとられる状態においてせられているのである。以上の諸点から考え、前記同被告の当審供述を信用すべきか否かには大きな疑問がないではない。しかし同被告の当審供述によつてその成立の認められる乙第八ないし第二十二号証に同供述を総合すれば、同被告においてその独立営業の当初である昭和三十六年一月から同年十一月十四日に至るまでの間に右テツクス使用のアイロン台の材料を相当量仕入れている事実はこれを認めざるを得ないところであるとともに、同被告の当審供述によれば、その営業当初の頃は得意先もなく安いものを作らなければ売ることが困難な関係からテツクスを材料としたものも作らざるを得なかつたというのであり、また当時同被告は弟と二人で仕事をしていたが、弟は素人であり、同被告は製造の傍ら製品の販売配達に出なければならず、ために多くの数量の生産は困難で、月三千台から三千五百台がせいぜいであつたというのである。しかし一方また同被告は材料用テツクス購入の証拠としては前記乙第八ないし第二十二号証を提出するだけで、昭和三十六年十二月以降のものについては何らの証拠も提出しないのであり、更に同被告はその当審供述で、アイロン台としては「たいこ」型の方が客の評判がよく材料が入ればその方が客の受けはよいとも供述しているのである。しかも、昭和三十年頃以降東京方面においては、アイロン台といえば「たいこ」型のものがその常識とまでになつていたこと、被告山嶋らの関係でさきに認定した通りである。

以上の各事情を総合して考えてみると、同被告の創業の頃である昭和三十六年の初めから同年十一月に至るまでの間は同被告供述のような事情で「たいこ」型の外にもテツクス材料のものを製造せざるを得なかつたものであつて、その数量の割合は他に何らの資料もない本件においては、同被告の当審供述通り半々であつたものと認めざるを得ないとともに、同年十二月以降の部分については、前記のように同被告はテツクス使用のものについての材料購入の証拠を何ら提出しないものであるとともに、営業当初の頃においては素人であつたという同被告の弟も、その後次第にその仕事に慣れるに至つたであろうことはこれを推察するに難くないところであるから、仮りに同年十二月以降においても同被告が多少はテツクス材料のものの製造販売をしていた事実があるにしても、同時期以降同被告の製造販売の数量という三千台ないし三千五百台は「たいこ」型のもののそれと認めて然るべきであろう。

そうすれば昭和三十六年三月一日から同年十一月末日までにおいて同被告が製造販売した本件「たいこ」型のアイロン台の数量は一ケ月平均千七百五十台から千五百台、これを平均すれば一ケ月千六百二十五台、九ケ月で合計一万四千六百二十五台と認むべきであり、昭和三十六年十二月一日から昭和三十九年二月末日までのそれは月産三千台から三千五百台の平均値で三千二百五十台をその月産高と認めるのが相当であり、二十七ケ月で合計八万七千七百五十台と認められる。(特別の事情の認められない本件においては、月産台数は右の通りその平均数をとるのが相当と認められる。また同被告本人の当審供述中には前記の認定に反する部分が相当にあるが、これは右認定の諸事情から考え採用しない)。

(二) 同被告製造販売の本件「たいこ」型アイロン台の販売単価が少くとも一個百円であつたことは同被告本人の当審供述で認められ(特別のものは一個七十円で売つたものもあるというのではあるが、これは特別の場合のことであり、しかも一個二百五十円のものも売つていたというのであるから、少くとも一個百円と認めることには何らの不当もないであろう。また本件のような大小数種のものが各その価格を異にして製造販売せられており、その販売個数がその各種のものについて個数ないし比率も認めることのできない場合にあつては、その販売価格の平均値をとることもこれを相当とすることはできないであろう。)、その利益率は十%から二十%であつたことは同被告本人の原審供述で認められるので、同被告が右の販売によつて受けた利益はこれを平均して十五%に当る一個当り十五円(特別の事情の認められない本件では、これは平均値によつてよいであろう。)であつたものと認めるのが相当である。

(三) そこで同被告から原告に支払うべき損害賠償額は、

(イ) 昭和三十六年三月一日から同年十一月末日までの一万四千六百二十五台につき右一個十五円の割合による二十一万九千三百七十五円、

(ロ) 昭和三十六年十二月一日から昭和三十九年二月末日までの八万七千七百五十台については、原告請求の一台四円の割合による実施料相当額(この相当額の認定については、原判決理由におけるこの部分の説明を引用する。)で算出した三十五万一千円、

(ハ) 以上合計五十七万三百七十五円及びこれに対する最後の不法行為の日ののちである昭和三十九年三月一日以降完済に至るまで年五分の割合による損害金、

ということになる。

三、結論

以上の通りであるから、第一審原告から第一審被告有限会社ミツヤ製作所及び同山嶋兵造に対する本件控訴並びに第一審被告名取侑から第一審原告に対する控訴はいずれもこれを棄却し、第一審原告から第一審被告名取侑に対する請求については、前記の理由によつてこれを主文記載のように変更することとする。

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